ひとつの物事に対する見方は様々。それを選択できるのも当然自分自身。
春です。東京も桜の開花宣言がありました。近所の桜も少しずつ咲き始めました。職場でも人事異動がありました。職場であまり好かれていない上司が異動になり、周囲は喜んでいる人が何人かいました。私はその上司にはそこまで悪い印象がなくどちらかといえばお世話になった立場です。
「同じ人物の上司に対して、よい印象と悪い印象をもつ人がいる。」
なぜそのような出来事が起こってしまうのだろうか?その時のタイミング?考え方の違い?態度?要因はわからないけれど、ひとつわかっているのは、全員がすべて同じ印象をもつことはない。だからこの世の中が成り立つのかもしれません。
【こだまでしょうか】金子みすゞ
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。
***
ひとつの物事に対する見方は様々。「この人がすき」って思うと「すき」って思ってくれる。「この人が苦手」って思うと「苦手」って思われてしまう。
前回の記事で書いた言霊ではないけれど、言葉の力は自分に跳ね返ってくるのかもしれない。
こだまでしょうかの詩の一番最後は「いいえ、だれでも。」で終わっています。
この「いいえ、だれでも」の意味を考えると、この言葉を言っているのはだれでもない、自分自身だと思うのです。
それは自分自身。
お互い言い合っているようにみえるけれど、結局自分の発した言葉はこだまのように自分に跳ね返ってするのではないかと思います。それはまるで鏡のように、その姿そのものが自分自身を映してるのです。
春日 深青(Kasuga mio)
追記
金子みすゞという詩人は「あなたと私」をテーマとして数々の詩を残してきた詩人です。
「私とあなた」ではありません。相手がいて初めて自分がいる。
相手がいて初めて自分を認識できる一方的な見方だけでなく、弱者や相手側の心情まで深く読み取りた詩をたくさん残しています。そして相手にとっても自分は大切なあなたになれるとうたっています。
この「こだまでしょうか」の本来の意味はきっと相手がいるからそう言える、相手がいるから自分に振り返ることができる。そういった意味あいが本当に金子みすゞが伝えたい意味合いがあると思います。
今回、こだまは自分自身だと解釈しました。読まれた方と解釈が違うことがあるようでしたらご了承ください。