その生き方を選んだのは自分。自分の過去の経験にもっと自信をもつべき。
現在就職活動中の旦那さん。最近面接を受けました。
面接を受けた日の夜。とても浮かない顔をしています。理由を聞くと「今までの職歴」について聞かれたようです。彼は今までかなり転職をしているようでした。理由は職場環境が悪く退職や体調が悪く退職など様々なようです。
聞かれることを気にするな
私が最初にかけた言葉です。だって、転職してきたことは事実でしょ?そのことを気にしてどうするの。「それしか聞くことがないのか!」ぐらいに思えばいいよと伝えました。自分がそのような生き方を選択してきたわけなんだから、それを否定するのは絶対によくない。自分の過去や経験にもっと自信をもつべきだと思います。何も後ろめたいことなんかない。
自分は今までたくさんの経験をした。これからも、たくさんの経験ができる。経験数の少ない人よりもいい立場なのだと思えばいいのです。
「選べる立場」でいよう
次に伝えた言葉です。彼は自由に仕事を選択できる立場にいます。いわば「選べる立場」雇用者側からみると彼は「選ばれる立場」どちらの立場に立つかで考え方が変わります。
私たちはどうしても「選ばれる立場」として考えてしまいます。雇用者は私たちの労働の見返りとして賃金を支払うためか、よりよい人材を「選ぶ」そして、私たちは「選ばれる」という考えになってしまいます。
でも、私たちは仕事を「選べる立場」でいるべきなんです。仕事、生き方、生活、全てにおいて私たちは自分で「選べる立場」であるべきなのです。もっと自信をもって「選べる立場」でいよう。
3つの車にお世話になるな
これは余談ですが、「赤い車、白い車、黒い車にはお世話にならないように」ということを伝えました。生きている上で色々ありますがこの3つの車にお世話にならなければよいのです。いまを生きること。ただそれだけでいいのです。
春日 深青( Kasuga mio)
乗客の連携と協力しあう場面に出会った話
昨日の帰宅の電車の中での出来事です。私が電車に乗ったときから、何気に車内が落ち着きがない雰囲気でした。どうやら座っていた年配の男性が、前の駅から時々気を失ったり後ろの窓に頭をぶつけていたらしいのです。近くにいた乗客は私が乗ってきた駅で降ろして駅員さんに引き渡したかったようですが、ものすごい人の乗り降りで止められなかったようです。
「次で絶対止めて降ろしましょうましょう。」
男性の乗客が言いました。次の駅まで約2分。その途中に気を失っていた年配の男性は嘔吐をし始めました。つかさず隣に座っていたこちらの男性が鞄からスーパーの袋を取り出しキャッチ。その間も年配の男性は時々気を失ったりしています。とても長い長い2分間でした。
駅に着くととりあえず私を含めてドア付近にいた人たちで駅員さんを呼ぶ人と、とりあえず非常停止ボタンを探す人と、気を失っている年配の男性に声をかける人。なんとなく役割が決まっていて駅員さんを呼んで、時々気を失う年配の男性を駅員さんに託しました。どうやらその前に年配の男性が降りる最寄り駅を聞いていたようで、合わせて伝えていました。
乗客の連携をみた
明らかに生命の危機を感じると、たとえ知らない人の同士でも会話が生まれ人は連携することがわかりました。放っておく人はいないのかもしれない。でも全員が全員ではない。狭い車内で動けたり手助けできる人は限られている。でもその場で動ける範囲にいた人はみんなで協力しようとする姿がそこにはあった。
非常事はいつ起こるかわからない
今回意識を失い嘔吐が始まったときにとっさにスーパーの袋をもっていた人の動きに感動を覚えました。普段持ち歩きませんが家に帰ってから私も通勤カバンの中に入れました。いざというときに色んなことに袋は役に立ちそうです。今回は年配の男性でしたが、非常事はいつどこで起こるかわかりません。そんな非現実的な場面に遭遇したときこそ冷静でありたいと思いました。
ちなみに非常停止ボタンはホームドアの横にありました(東京メトロ)
迷惑な非常停止ボタン
今回気になったので、非常停止ボタンについて調べてみました。ホームドアの横にあったり、ホーム上にあったり駅によって設置場所は様々なようです。しかし、たいしたことがないのに非常停止ボタンを押すケースも少なくないという書き込みがあって少し残念に思いました。今回の場合は意識を失った年配の男性の救出のために2〜3分ほど停車しました。アナウンスで急病人救護のためと流れましたが、もしかしたら「わざわざ電車を止めるなよ」なんて声もあるのかもしれません。非常停止ボタンを押すのは乗客です。押すかどうかの選択を委ねられているのは私たちです。
昨日の出来事ですが、私はいざというときには他人同士でも協力し合うことができるのだということがわかっただけでもよい経験ができたと思っています。
春日 深青(Kasuga mio)
自分のために休暇を使うことは悪いことではない。それなのに何故責められるのかを考えてみた。
今日は職場で午後から研修会がありました。(研修会の参加は任意参加です。)
研修会の内容としては、全体会がありその後専門分野に分かれての研修になります。
私が今回参加したのは全体会のみで、後半の専門分野に分かれての研修会には休暇を取って出ませんでした。職場では①研修会自体に出ない②全体会だけ出る③最後まで参加するの3パターンがありました。
私は②を選択しました。現在の全体的な様子だけを知り、まだ専門分野をしっかりとしぼりこめていないこともあり正当な休暇を申請して帰宅しました。しかし職場を出るときに「研修会に出るなら最後までいないと意味がない」といわれてしまいました。
何故自分のために休暇を申請したのに責められたのだろうか
まだ経験が浅いから
確かに自分は転職組で、職歴が浅いほうです。熱心に取り組んでいないように思われたのかもしれません。もちろんその研修会で得られることはもちろんあります。しかし、自分にとって有益に感じないものに対して参加したいとは正直思いません。
自分との価値観が違うから
その人にとっての価値は、研修に出て新しい知識を得ることということを長年続けてきたのかもしれません。私にとって価値あることは、休暇をとり現在家庭を守って頑張ってくれている旦那さんに代わって日頃できない家庭のことをしたいと思っています。
社会全体をみると、まだまだ自分のために休暇を使うことに批判的な風潮があるように感じます。私は新年度に新しい年休が20日プラスされますが、最大年間40日しか繰り越せないため、毎年7〜10日ほど消化出来ずに消えていきます。
社会の風潮に左右されすぎ。結局自分から変化を望んでいないからだ。
日本は有給を取るときに罪悪感を感じるとか有給消化率が悪いとか言われていますが、結局はそういう風潮を当たり前に感じてしまっている思考がそもそもよくないのかもしれない。その風潮をなんの疑問を感じずに「有給がとれないのは当たり前だ」とか「有給が取れないのは仕方ない」と思って過ごしているから有給が取れないのです。いや違います。日本人は有給を取れないのではないので取らないのです。
有給休暇は労働基準法で定められている働く人の権利です。職場の同僚に迷惑をかけながら休暇を取るというのを推奨しているのでは全くありません。
お互いが心地よく仕事ができるように、配慮しながらも自分のために休暇を使う。そんな職場でありたいと思います。
いつまでもあると思うな命と時間。自分のための時間を大切しよう。
明日が必ず来るとは限らない。いまを生きるのです。
春日 深青(Kasuga mio)
果たして禁煙はいつまで続くのだろうか(2ヶ月目)
果たして禁煙はいつまで続くのだろうか・・・なんともうすぐ禁煙2ヶ月目になります。
あれからまた禁煙に対する症状が変わってきているので覚書として記録しておきます。
吸いたいという猛烈な欲求がなくなってきた。
以前は「モヤモヤする」とか「イライラする」とかの表現をしていましたが、今は言わなくなりました。
聞くと「吸いたい!」という欲求がなくなってきたとのこと。これは仕事も現在していないので、ストレスがかかってないからかなとも考えられます。
以前は吸いたい気持ちを抑えるために散歩をしていましたが、今は禁煙のための散歩ではなく、普通の散歩をしています。
咳と痰の症状がなくなった
あんなに夜中に苦しんでいた咳と痰の症状が全くなくなりました。もう出すだけ出しきったのでしょうか。
一体いつまで続くのかという言葉に、「春が来る頃には治ってる」と言って励ましていましたが、春が来る前になくなりました。よかった。
もうひとつあった症状の睡魔もなくなりました。
皮膚が荒れてきた。
代わりに皮膚の荒れがひどいです。元々皮膚が弱く、乾燥肌でアレルギーっぽい感じでしたが、一層痒みも増しているようです。
本当に身体の中から悪いものを出そうとしている感じがします。こちらの症状も「いつまで続くのだろうか」と言っているので「春になる頃には治っているといいね」と励ましています。励ますことしかできないからです。
体重が増えた。
一時期痩せていたのですが、少しずつ体重が増えているようです。特に食べる量が増えた感じはしないのですが、甘いものをよく食べているような気がします。
とりあえず2ヶ月目のごほうびはなしなので次は3ヶ月目でのごほうびを目指して頑張ってもらいたいと思います。(毎月のごほうびより期間を空ける方がモチベーションが上がるような気がします)
そして、相変わらずこちらのできることは「協力すること」だけです。
禁煙が続いていたら【果たして禁煙はいつまで続くのだろうか(3ヶ月目)】でお会いしましょう。
春日深青(Kasuga mio)
配偶者の収入がなくなったが実はよいことがあることに気づいた。
旦那さんが仕事を辞めてしましました。新しい職を探し面接を受けているようです。ところが。実は彼が仕事を辞めてからよいところがたくさんあることに気づきました。まとめてみます。
部屋がきれいになった。
お互いフルタイムで仕事をしていると、帰ってご飯食べて寝るだけ…となり、部屋の片付けは週末に掃除か、汚くなってから掃除がほとんどでした。
今は彼が1日1箇所ずつ徹底的に掃除を自主的にしてくれてます。きれいな部屋に帰ってくると本当に嬉しい。
→自分の変化
部屋がキレイなのでモノを出しっぱなしだと目立つ。自分も自主的に片付けをするようになった。
ご飯がある
今まではお互いが働いてたので、外食や出来合いのものを買って夕食を済ますことが多かったのですが、今は帰ってきたらご飯が作ってあります。私の仕事は朝6:15に家を出
て帰宅が20:00頃なので、帰ってきてからご飯があるというのは本当にありがたいことです。
→自分の変化
今まで食べた後の片付けが面倒でなかなかしなかったが、あまりに何もかもしてもらって申し訳ないので、自分から積極的に洗い物をするようになった。
無駄な買い物が減った
収入が減った分、モノを買うときに「本当に必要かどうか」を考えてから買い物をするようになった。
→自分の変化
いいものを長く使いたいという考え方に変わった。たとえ高くても購入して、長く使いたいなと思えるように考え方が変わりました。
仕事がないということが気にならなくなった。
元々仕事を辞めた時も「よかった」と思っていましたが、改めて仕事をしていない配偶者がいることが気にならなくなりました。
何故かというと、今の生活環境の方がいいからです。それは、家の環境をよくしようとしてくれているのがわかるし、仕事を探そうと頑張っているのがわかるからかもしれません。仕事ばかりではなく、人間にとって住環境は大切だと気付かせてくれました。
配偶者に仕事がない夫婦はこれからどこに向かうのか?
今感じている幸せをたくさん見つける。
いまを大切に生きていくだけです。
春日深青(Kasuga mio)
配偶者の収入がなくなった。その時妻はどうあるべきか。
我が家のことです。この度、旦那さんの収入が途絶えました。 理由は「仕事を辞めた」ことです。
派遣社員として働いていましたが、更新されず仕事がなくなりました。 その後、新しく正社員として仕事が決まったのですが、一ヶ月たたずとして仕事を辞めてしまいました。自己都合退職です。 理由は、当初の条件と賃金や勤務時間が異なったことによることだと考えられます。
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よかったね
私が彼に最初にかけた言葉です。私は彼が仕事を辞めてよかったと思っています。毎日、毎日仕事の愚痴を言い、仕事も大変そうでツラそうでした。仕事を辞めることでその負担から解放されるからです。ツライという事実に1日でも早く気がついて本当によかった。そして自分から「辞める」という決断ができて本当によかった。いろんな意味を含んだことでの「よかったね」という言葉をかけました。
でもそれは彼に対してではなく、自分に対して「彼の愚痴を聞かなくなってよかったね」とも置き換えられるのかもしれません。私は、彼のツライ話を聞いても、当事者ではないのでよくわかりませんでした。ただただ聞いているだけ。しかし、聞くと自分までも暗い気持ちになりマイナス思考になる。だけど、もうその愚痴も聞かなくて済むと思うと本当によかったと思えるのです。
好きなことすればいい
次に伝えたことは「好きなことをすればいい」ということを言いました。とりあえず「旅に出れば?」と言ったのですが、次の仕事を探すようです。
「好きなことをすればいい」と言えるのは、自分に一定の収入があるから言える台詞なのかなと思います。そして子供がいないということでも言える台詞なのかなと思います。でも、一方の収入が途絶えたときに一緒になって悲観的になってもしょうがないと思うのです。
「収入ないの?困るんだけど!」って言っても仕方ない。
「早く仕事みつけてよ!」っていっても仕方ない。
せっかくだから「すきなことすれば?」っていうのはおかしいのだろうか。それに対して「すきなことするにはお金がない」とか「とくにしたいことがない」とか言われるとそれこそがっかりする。
「ないないないない」って思うから「ない!」んだよ!
「あるあるあるある」って思えば「ある!」のに。
たくさんの「ある」をみつけて欲しい
仕事が「ない」という不足側からものごとをみるのではなく、たくさんの「ある」という充足側からものごとをみて欲しい。
・新しい仕事を選べるチャンスがある
・自分のこれからの生き方を選択できる力がある
・24時間を自由に使える時間がある
・新しい人との出会いがある
私の生き方のテーマでもある「いまを生きる」こと。
仕事がないということが「ピンチ」と思うか「チャンス」と思うかはその人次第なのだと思う。もし私が彼の立場ならここは「チャンス」だと思う。そしてたくさんの「充足感」を味わうだろう。
彼に「前向きだなぁ」と言われました。そうです。私は「前向き」です。後ろを向いてもしょうがない。過去を後悔してもしかたない。
配偶者の収入がなくなった。その時妻はどうあるべきか。正直、どうあるべきかわかりません。でも、私は前向きにとらえたい。
そんな妻がこの世の中にひとりぐらいいでもいいと思うのです。いまを生きるのです。
春日 深青(Kasuga mio)
「続ける」と「続けられない」の境界線とは何か
私は「続ける」ということが「苦手」な人間です。 かといって、すべて「続けることができない」ということもありません。 もしかしたら他の人は「続ける」ことなんて簡単なのかもしれない。
私の中で続けることの「できること」と「できないこと」の違いはなんなのかを考えてみました。
続けることができたこと
①資格取得
某資格を3年かかって取ることができました。 どうしても、欲しい資格で、その資格がないと仕事ができなかったということもあり、必死に取得しました。
②ダイエット
ようやく、自分の希望としていた体重になりました。なかなか痩せませんでしたが、とりあえずその体重にならないと自分の身体がツラくて、身体が重いと動かないこともあり痩せることができました。食事制限や間食を徹底的に見直しました。
続けることができないこと
①部屋の片付け
「ものを減らす」ことを目標として生活していますが、どうしてもできません。すぐに散らかってしまう部屋に嫌気がさします。一時期綺麗にしてもまた気がついたら散らかっている・・・なかなか悪循環からの抜け出しができません。
②ブログ
このブログも毎日の更新はできません。ブログを書く時間の捻出と自分の思いがうまく文章に表現することができず、ついつい更新が滞ってしまいます。
③語学習得
英語が話せるようになりたいと、何度か語学習得にチャレンジしてきましたが、結局続かず断念。そしてまたチャレンジを始めるが結局断念。その繰り返しループから抜け出せません。
「続ける」と「続けられない」の境界線とは
①自分にとって必要か必要でないか
続けられたことは、自分の人生にとって「必要なこと」続けられなかったことは自分の人生にとって「必要ではないこと」なのかもしれない。自分の生き方にとって必要なことであれば、どんなことでも続けられる。
それは、自分が本当に「したいこと」か「したくないこと」かの違いでもある。きっと資格を取得したり体重を落とすことは、自分にとって「したい」ことであり、部屋の片付けやブログは「したくない」ことなのだ。
②目標が高く負担が重い
資格取得やダイエットも目標が高く負担が重いと感じる項目に当てはまりそうだが、上の2つは自分の生き方にとって「必要なこと」と認識された時点で目標の高さや負担を感じるということがなくなる。しかし「続かないこと」を分析すると
すべてのものを減らしたい→今までものに囲まれた生活をしていた自分にとっては、急なライフスタイルを変えることは目標が高く感じ負担に感じる。
ブログは毎日更新する→自分にとっては目標が高く負担になる。
そのために、目標設定を低くして負担の感じない程度にする。
すべてのものを減らしたい→できるところから徐々に減らす
ブログは毎日更新する→毎日ではなく、とりあえず週1回を目標にすると、自分にとってハードルを下げることで続けることができるようになるのかもしれない。
③ゴールがない
資格取得には合格、ダイエットには目標体重というゴールが明確になっているが、部屋の片付けは延々と続き、ブログにもこれといったゴールの設定がない。また、語学習得に至っても、習得した後のビジョンがないため、結局は明確なゴールがないことに気がつく。
なぜ、それそ続けるのか?続けるにはどんな目標があるのか?ある程度のゴールがあると続けられるのかもしれない。
たとえば、部屋の片付けやブログが3ヶ月続いたらご褒美、語学習得したら海外旅行など、明確なゴールが定めにくい場合はご褒美制度に変えてみるのもよい。
これから「続けられるために」
①部屋の片付け
家庭ゴミとは別に週1回で1袋作る。一週間で1袋作り月曜日にゴミを出す。
②ブログの更新
毎日ではなくて最初は週1〜2回の更新を目指す。無理はしない。
③語学習得
今の自分には必要ないと割り切る。語学習得はしない。必要なときになれば行う。
未来はいまここからつくる。いま出来ることをしよう。いまを生きる。
春日深青(Kasuga mio)